光市母子殺害事件 <判決6月20日午後3時>
2006年 06月 08日
事件から7年、父は犠牲者本村さんに会おうとしなかったという。その理由を問われ、(本村さんの)心を逆なでしたくないし、刺激を与えるような行動を取りたくなかったからと答えた。
父親の話を聞きながら、東野圭吾さんの小説「手紙」(毎日新聞社)がしきりに思い出された。兄が泥棒に入った家で殺人を犯し、たった一人の家族である高校生の弟は社会からの差別を経験することになる。自分が犯した罪でもないのに、どうして自分がこんな仕打ちを受けねばならないのか。やっと勤めた職場でも身元がわかり、不当な人事異動を強いられる。そして社長から思いがけない言葉をかけられる。
「君が兄さんのことを憎むかどうかは自由だよ。ただ我々のことを憎むのは筋違いだといっているだけだ。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになるーすべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね」
<犯罪者は自分の家族の社会性をも殺す覚悟を持たねばならない。そのことを示すためにも差別は必要なのだ。>
「手紙」の弟はある契機から事件から何年も経ってやっと遺族への謝罪に出向く。「息子がしたことですから、息子が責任とるのが当たり前ですから、その親の責任って、親は責任とってやりようがないんですよ」と光市母子殺害事件被告の父は言うが、はたしてそうなのだろうか。息子が事件を犯さなかったら家族もバラバラにならなかったと語る父は7年経ってはじめて息子に面会した。
しかし、息子に会う前に本村さんに謝罪するのが本当ではないのか。本村さんから拒絶されようと、蹴飛ばされようと、親としては謝罪するしかない。し続けるしかない。辛いのは当然だ。私もその立場に立つことを考えると身がすくむ。だが、本村さんはもっと辛い7年だった。酷な言い方だが、被告の父が未だ本村さんに謝罪していないのは、自分の防御本能ではないのか。
殺人を犯した者は被害者や遺族の未来を奪うだけでなく、自分の家族の人生をも奪ってしまうのだ。小説「手紙」の読後感は非常に重いが、出来るだけ多くのひとに読んでもらいたい本でもある。
子供ってホント、親の背中を見ていますよね。「子供は親の鑑」というのは怖い言葉ですが、真実かも知れません。
ここという時に親は逃げてはいけませんね。昨夜の放送を見ていてそう感じました。