おまさぼう春夏秋冬~Second Season~:映画 美人図
2018-12-13T19:27:43+09:00
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終活しなくちゃと思いながら毎日をだらしなく送っている団塊の世代です。写真は、ドラマ『子連れ狼』(北大路欣也さん版)の大五郎(小林翼さん)。私の癒しです。スカパー「時代劇専門チャンネル」のTV画面から撮影。問題でしたらお知らせください。
Excite Blog
5年振りの『美人図』@シネマート心斎橋
http://omasabeu.exblog.jp/24527258/
2015-10-01T15:58:00+09:00
2015-10-01T16:01:26+09:00
2015-10-01T15:58:07+09:00
omasa-beu
映画 美人図
思い起こせば、2010年8月21日、シネマート心斎橋で開催された「韓流シネマフェスティバル」。スクリーンの中のキム・ナムギルに会ったのは、この時が最初でした。『美人図』、『カン・チョルジュン公共と敵1-1』、『後悔なんてしない』の三作品を続けて観られるという感動。この前の年、『善徳女王』のピダムでナムギルに堕ちてから間もない頃だったせいか、心浮き立つ一日でした。
あの頃から考えると、かなり冷静なギルペンになっていても、ナムギルが出ている場面では彼しか観ていない私(笑)。
映画全体は、R18指定にもかかわらず、文芸作品と言うべき情緒が漂っています。当時の庶民の暮らしが垣間見られる市場の風景をカンムが走り抜けるシーンには、ナムギルの今の成功を思わせる魅力が全開ですが、私のお気に入りは、濡れ場を除くと(笑)、終盤近くのお寺でのアクションシーンです。ユンボクを逃し、捕っ手に立ち向かっていく際の足さばきの小気味よさ、どこを切り取っても形になっている動きに今回も魅了されました。立ち姿の美しさはピカイチ。エンドクレジットで流れる主題歌の旋律は、何度聴いても、心に沁みます。
キム・ナムギル特集が始まった初日、二日目は大入りに近い観客だったようですが、この日は客席の前半分はほぼ空席という状況。もちろん、平日でもありますし、最近の映画館でこれだけ入っていれば十分ですが、ギルペンのみなさま、土曜日からの『無頼漢 渇いた罪』に備えてられるのかなと。
映画のあとは、『赤と黒』のロケ地下呂から来られたギル友、Hさま、関西のギル友、Pさまと一緒に鶴橋へ。心斎橋から難波まで歩き、地下鉄千日前線で鶴橋下車。長年、大阪へ通勤していながら、鶴橋あたりに足を踏み入れるのは初めての経験でした。駅前の狭い路地に立ち並ぶ焼肉店や韓国料理屋さんのお店が皆想像していたよりもきれい(笑)。適当な店で、定番の海鮮チヂミ、トッポギ、チャプチェで腹ごしらえ。もちろん、ビールも。
その後、Pさまの案内で、コリアタウンへ。水曜日は定休日の店が多いのか、韓流がしぼんでいるせいか、閑散としたものでした。韓流ショップと見れば、ナムギルグッズの探索をしましたが、これというものはなかったです。記念に、惜しみなく使えそうなクリアファイルとシールだけ、買ってきました(笑)。近いうち、『赤と黒』を超えるドラマにナムギルさんが主演し、身内や友人も彼の名前を覚えてくれる日が来ることを願うばかりです。
最後は、われら本能的大阪人チームが集ういつもの店で軽い夕食とビール。お二人さま、時間を気にせず、ゆったりしたギルディをありがとうございました。
さて、3日は『無頼漢 渇いた罪』公開。一応、ネットで座席を確保。手持ちの前売り券は、来週、使うことにします。
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<インタビュー> 『美人図』の男、キム・ナムギル ③ (おわり)
http://omasabeu.exblog.jp/24418073/
2015-08-30T19:25:00+09:00
2018-12-13T19:27:43+09:00
2015-08-30T19:25:06+09:00
omasa-beu
映画 美人図
第29回青龍映画祭(2008年11月20日)にプレゼンターとして登場した『美人図』のご両人。『美人図』韓国公開は2008.11.13でしたので、公開中のお出ましだったんですね。この時、主演女優賞を受賞したのが『妻が結婚した』のソン・イェジンさん。写真の出処は画像内に記載。
では、続きです。
そうでしょう。朝鮮時代なのに、お腹に洗濯板(腹筋)が刻まれ、薬を呑んで育てた筋肉なら、あまりにも似合わないじゃないですか。
そうでしょう。でも、ぼくは運動しても出てこないんだけど。(笑)とにかく、リアリティ的な部分のために男優はプレッシャーが減少しました。それから、常に女優はプレッシャーが多くならざるを得ません。それで、ちょっと楽にしてあげようと、撮影中、服を脱いでたくさん走り回ったりという感じでした。スタッフたちが吐き出すほど。
なんで?
スタッフたちはご飯を食べたばかりなのに、男優が脱いで歩き回るから、吐きそうということだったんです。(笑)ところで、そんなに気を楽にさせても女優がそれを気楽に受け入れない場合もあります。撮影に入るときまでも服を脱がないで、脱ぐことに対する恐れを持っているので、演技が自然に出なかったりもします。でも、ミンソンさんは、ぼくがそうするほどに、気楽にちゃんと受け入れてくれました。そうやって、ちゃんと受けてくれたので、さらに楽にしてあげようと努力をしたんだと思うし。そのような部分のために自然で容易に演技をしていなかったかと思います。
では、これはどのように考えておられるか気になります。ですから、『美人図』がマスコミ試写会やVIP試写会以前から、またその後にも現在まで、俳優たちの演技や他の面よりすごくエロティシズムに焦点を多く当てられていますが...
ぼくは、それほどそんなことはないと話してるんだけど..
すごくセクシャルな部分、刺激的な部分を広報のコンセプトとして、コピー自体も「朝鮮のエロティシズム」という言葉をつけました。タイトルがシン・ユンボクの話を扱う『美人図』なので。もちろん、映画を公開しておいてみたら、そんなレベルが高いシーンがあったというそんな部分はあるけれど、それでも広報そのものをあまりにもそのような方向にすることがないでしょうか。
映画に参加した俳優として、その部分がすごく気に入らないです。俳優たちが服を脱いだ部分については、どっちみち、映画を見れば、なぜ服を脱ぐのか分かってきます。だから、広報においてその部分をアピールするよりは、演技的な部分、映画全般的な部分に対して広報されねばならないと思います。最初に、センセーショナルな朝鮮メロ、エロチックなベッドシーン、そうしながら、検索語が上がってそうした時も、ぼくはマーケティングチームにすごく抗議をしました。映画の中でぼくたちが見せるのがこれしかないみたいじゃないか。あえて、こんなに低級映画に見えるように広報をする理由は何か。もちろん、考えによって違いますが、自信があるに値する部分が多くなさそうだったからかも知れませんね。しかし、明らかなことは、ただ観客動員のためのそんなことよりも、映画全般を見なければならないと思います。
露出についてずいぶん訊かれたと思いますが。
実際、インタビューをする時、脱ぐという、そういう部分についての質問にはできれば返事をしません。露出やベッドシーンについて、すでに全部広報されているのに、インタビューにまで、あえてそれを話す理由は何かという気がするんですよ。一番最初に、一番多く訊かれる質問がそれです。ベッドシーンについて、ぼくたちの露出について。映画をご覧になって、そこに何か映画的関心を持って真剣に質問をする記者の方たちは違いますが、そうでない場合も多いです。だから、そのような部分への憂慮もすごく多いです。正直、気分もあまり良くないし、有難迷惑な関心でもあります。本当に、ぼくたちが情熱を抱いた人物に対して、より関心を持っていただきたいと思います。
本当に率直に話してくださって...ここに広報の方々もいらしてますが。(笑)
いいえ。違うと思うことは観客たちのためにでも違うと正確な考えをいうのがふさわしいようです。
人々が映画を見て露出に関してそれがすべてだとされるよりは、俳優たちの演技についてもっと多くの話を交わすなら、俳優の立場ではそれ位いいことはないでしょう。
ほんとうに、そうならいいですね。露出部分にはまって映画を見れば、演技についてではなく、「ああ〜激しい」という話だけして行くことになります。それが中心ではなくて、ぼくたちの焦点はそれではないのに。演技がちゃんと出来ていいないことは別にして、きびしい声でもいい声でも映画に対する部分を語って、もう少し発展的に進むことができる部分を話してなければならないようです。激しい、下品だ、長い、短いとか、そんな話ではなく。
そのような考えがよく伝達されることを願って。(笑)さっき、『モダンボーイ』のカット分量について話をしましたが、『美人図』でもそういうことがありましたか?
『美人図』ではありませんでした。もう少し活発だった部分、あるいは、その他、部分的にカットされているものはあっても、話の流れで、カットされた部分はありませんでした。
カットされると、失望することになるでしょう。懸命に撮ったのに。
俳優たちは皆そうですよ。映画は、常にそのような部分があります。カットされたことのため、『モダンボーイ』で残念だったことはありますが、それでも、ぼくはまだチョン・ジウ監督を擁護して支持します。ぼくが損害を被り、被害を受けることがあっても、ぼくが『モダンボーイ』に対する愛情が誰より格別だったということをチョン・ジウ監督も知っておられます。よくは分からないけど、これが、もし他の監督だったら、二度とその監督とは仕事をしないかも知れないです。(笑)でも、チョン・ジウ監督については、ぼくが感じること自体が違うんですよ。
私は『親知らず』を通して、監督の作品が好きになりました。
本人もその部分がすごく大変だったんです。 『親知らず』と『ハッピーエンド』をはさんで、『モダンボーイ』に製作費がたくさんかかりすぎたので、『ハッピーエンド』の方に行かねばならなかったでしょう。ところで、本人が望んでいたのは『親知らず』でした。そのような部分に対して監督はすごく悩んだし、そのために、今回もぼくは最善を尽くしたから後悔しないように話をしたいです。もちろん、問い詰めてみれば、チョン・ジウ監督も誤りがなくはない。それだけにかかった投資的な部分に対して責任を負わなければならないことは事実であるから。しかし、ぼくはそんなことは別にして、まだチョン・ジウ監督を支持する気持ちがあります。
では、今からは映画ではなく、キム・ナムギルさんの話をしてみましょう。ナムギルさんはすごく様々なキャラクターを演じています。ところで、通常、似たような年頃の演技者たちがトレンディなことをたくさんするのに較べて、そうではなかったんですよ。また、明るいものより暗いものをたくさんしたし、そんなことのために強い感じもするし。
ぼくをよく知らない人たちは、ぼくが暗い役をするときの姿がぼくの姿だと思います。でも、ぼくに実際に会うと、意外だ、という話をよくするんですよ。さっき、カンムが自分の姿に近いという話をしたようにそのような部分がぼくの中にたくさん含まれています。だから暗い役割をするとき、ぼくが持っていない部分から演技するのが少し難しかったりもするのは事実です。しかし、極端で暗い面が、演技する時、足りない部分をたくさんカバーすることもあります。実際に自然で柔らかい演技の方が難しいんですよ。人々は激しくて極端な演技を上手にするのが演技が上手いということと考えますが、そのような演技に慣れている人は、楽にリラックスする状況を与えると、その人物を安らかに易しく表現できない場合が多いです。
その部分は私もかなり同感です。泣き喚いて崖っぷちで叫ぶことよりも、ただ、「ご飯食べた?」を本当に気楽に実生活のように吐き出すことの方が難しいこともあり得ると思います。
「ご飯食べた?何してたの?」というのは、何か極端な状況ではないので、人物が自然ににじみ出て、その台詞が出てこなければなりません。でも、どうかすると、ドラマの人物にふさわしい感じで出てくるのではなく、実際の俳優本人の感じで出てくることもあり得ます。そのため、人物がドラマに自然に溶け込むということ自体がとても難しいのです。
公採(公開採用)を通して演技者になったじゃないですか。最近では、すごくめずらしいんだけど。公採演技者たちは。
ないですね。ぼくがMBCでも最後だから。元々は公演をしながら公採になって、放送、映画を開始しました。でも、舞台芸術に魅力を感じて演技をし、公演をしたので、ぼくが放送や映画をするとは想像もできなかったです。
いつから俳優になりたかったのですか?
高校の時から。リア王という公演を見てからでした。今も公演を見るとすごく震えます。そんなものを見て俳優になるという決心をしたからでもあるけど、観客の立場から見れば、舞台の上で俳優が演技をするとき、ぼくがその感じをすべて受けて一緒に呼吸をすることになるでしょう。
息遣いも聞こえるでしょう。
そんなことを見て、ぼくが観客の立場からでなく、舞台上に立つ俳優として観客の眼を見て一緒に呼吸したいという気にすごくなりました。 でも、最初には、俳優という呼び名より、ただ、あの上で呼吸をしたい、その考えがすべてだったみたいです。 それが後になって、俳優というものを知って、それと共に演技的な部分に対する情熱や欲を持つようになったのです。
再び、放送や映画ではなく舞台公演をしたいという気は。
今もそのような欲はすごく多いです。 『恋人』というドラマを撮る時も創作ミュージカルや公演に対する想いをやめなかったし、また、ずっと練習していましたから。
公演を観ると、俳優たちはすごく違って見えます。 映画やドラマで観る時と。
俳優たちは媒体によって演技的な部分に差があります。 もしかしたら演劇的な舞台でそれがさらに気楽かも知れません。
早く、ひとつしてください。インタビューしに行くことに。
はい。 分かりました。 でも、公演をしたら、そのまま来て、気楽に観て行ったらいいのに、何をそこまで来てインタビューをしようと言うのですか。(笑)
それは...あ...病気ですよ、病気。(笑)
とにかく、ずっと前に公採になったけど、その後にいくつかの事をたくさん経験したと聞きました。そんなことが今キム・ナムギルにどのようなことで残っているのか。
すべての俳優たちがそうでしょうが、特に男優たちは多くの部分を経験しなければなりません。経験を下地にして演技的な部分について多くのことを得るから。直接経験をできなかった時は本を読んだり、想像をめぐらせて演技をするのですが、そんなものは、経験を土台にしたものに較べてできない部分が多いです。だから、今は、ぼくがいろいろと困難な仕事を経験したということ自体がすごく有難いです。しかし、ぼくが経験をしたとして、それが無条件に赤裸々にちゃんと出ているのではありません。時間が経ったので。そのような経験をしたときにすぐにそのような役割をすると本当によく出てくるでしょう。でも、時間ということ自体が経つにつれ、その中に喜怒哀楽を経験することになります。しかしながら、結果的には、ぼくが演技する上で基本的な力になるのではないかと思います。今もちょっと腹ペコなのも演技的な部分においてそのようなものをたくさん感じなくちゃと信じていて。
あるインタビュー記事をみたところ、「先輩たちはぼくが持っていないものを持っているので、それらと比較したり、フォーカスがそれらにたくさん当てられてもそれほど残念だとは思わない。」と話されていましたね。では、それを逆に変えて、今では持っていなくても、最終的に俳優キム・ナムギルとしていつかは持つことができると確固として信じているのは何がありますか。
どうしても、積もり積もった経験的な部分がそうではないかと思います。先輩たちが持っているものの中で、ぼくがまだ持っていないものが多いです。もちろん、ぼくが持っているものの中で、人々が持っていないものもあります。結果的に、いろいろな経験を通して積まれるもの。また、それによって派生する幅広い多様性。そんなものはまだ不足しています。そして、フォーカスという部分については、そのような考えをたくさんします。ぼくが、もし、認知度を考えるなら、今のように作品を選択しなかったでしょう。主演であれ助演であれ、役割そのものは別にして、それぞれの配役に関心を持って話をたくさんしてくれたらいいですね。
『モダンボーイ』のマスコミ試写会の時、シンスケについての質問に「ぼくはこの方と立場が違います。分量を言うのではなく、シンスケは日本人だからです」と言ってましたが、その言葉に少し寂しさのようなものが秘められていました。
映画で、単に、ぼくが日本人ということのために排除になったというのがちょっと寂しかったのです。日本人役のためにカットさせたという話がとても多かったのです。独島問題のために反日感情が良くなくて。
本当ですか?
はい。ぼくは映画の中で日本人シンスケを表現するために、本当に不断の努力をしました。韓国人が考える日本人ではなく、本当に日本人が感じる感情を映画の中で感じさせるために。でも、シンスケが日本人なので、日本に対する感情が良くないので、そのような話をするということが少し残念でした。ぼくが表現した日本人は他の日本人である可能性がありますよね。だから、映画で必要とする日本人の役割に対してもこのように制限を設けるならば、映画自体に対する素材性や多様性が発展的であることができなくないだろうかという気もしました。
日本映画は上映しながら、韓国映画の中で、日本人の役割はいけないということ。
腹が立ちました。それから、腹が立ったことは別にして、それは本当に間違ってると思います。これはぼくが映画祭委員長を招いていても話をすることができると思います。(笑)
話がうまくいくように願います。(笑)映画のためにドラマをしなくなったのではないですか。 予定はありますか?
まだ。 実際、ドラマをして映画をしてたのにもかかわらず、ドラマをするのが少し怖いです。 先ずは台詞を覚えられないし。(笑)
そうですか?
そして二つ目は、ドラマは16部20部をしながら多くのことを見せるという長所があり、映画は含蓄的な意味を示すという長所があります。でも、ぼくの演技のトーンやパターンは、暗黙的な意味を込める映画の方に合っています。だからドラマが良いのがあればしますけど、今はまだ。
最後の質問。前に戻って、『美人図』の話をもう一度してみます。もう映画が封切りされますが、観客がどんな点に関心を持って映画を見てくださればいいのか。
さっきもお話したように真心を込めた愛を観ていただきたいと思います。観ながら、自分もそうした時があったという考えになったり、愛をしたかったが、怖くて、あるいは、現実的な部分を恐れて始められなかった、そんな愛を思い浮かべて見ることができる機会になれば良いという気もします。そして、現在、本人が持っている愛の価値観が違ってくるというより、今後、することになる愛について「自分にとって本当の愛とは何か」というような問いを一度くらい、自分自身に投げてごらんになったらと思います。そうすれば、『美人図』は、映画を見た観客の方々の胸に、より多くの余韻を残す映画になるのではないかと思います。
2008年11月24日(月) 文 キム・ソニョン記者(MOVIST)
2008年11月24日(月) 写真 クォン・ヨンタン記者(MOVIST)
元記事
http://www.movist.com/star3d/read.asp?type=32&id=15609]]>
<インタビュー> 『美人図』の男、キム・ナムギル ②
http://omasabeu.exblog.jp/24401353/
2015-08-25T18:17:00+09:00
2015-08-28T15:02:27+09:00
2015-08-25T18:17:22+09:00
omasa-beu
映画 美人図
被害に遭われたみなさま、お見舞い申し上げます。どうか、大難小難ですみますように。みなさま、お気をつけくださいませ。
さて、昨日は、キム・ナムギルさんが映画『殺人者の記憶法』に出演確定というニュースが韓国メディアに一斉に流れたようです。日本語の記事は、こちら、イノライフさんをご覧ください。
ナムギルさん自身も、ファンへのメッセージで、「次の作品の撮影が始まる」と書いていますから、新しい作品が決まっているのは確かでしょうけど、それが、『殺人者の記憶法』か、『阿修羅』なのか、そのうち、はっきりとするでしょう(笑)
インタビュー『美人図の男』の2回目です。
写真、お借りしました。
さあ...なるほど...(笑)
まず、『美人図』の出演を決めたきっかけを知りたいです。
映画というひとつのドラマを導いて行くためには、大衆に、関係者に認められなければならないし、演技的にもひとつのドラマを引っ張っていくことができる力がなければなりません。ところで、ぼくはまだ、そういったことが不足しています。これまで、ソル・ギョング、チョン・ジェヨン、パク・ヘイル、キム・ヘスなど良い俳優たちと作品をやってきましたが、現在、ぼくの現時点を素直に見ると、ぼくが彼らをサポートする役割以外に、まだドラマを引っ張って行ける力がありません。でも、『美人図』はキム・ミンソンさんがドラマを引っ張って行きますが、一人が一方的に引っ張っているのではないんです。 『モダンボーイ』のような場合は、ヘイル兄が一人でたくさん引っ張っていくので。もちろんそのために映画がちょっと退屈だったと思うけど...(笑)ぼくとヘス姉と毎日そんな話をしてるんです。(笑)
それ、記事に書いてもいいですか?(笑)
お書きください。大丈夫です。(笑)ぼくはカットされた部分も話すべき部分は、率直にすべて話す方だから。とにかく一人の俳優が一人でドラマ全体を導いていくのは大変です。 『モダンボーイ』でも、いくらヘイル兄がエネルギーがあるとしても、ぼくはチョ・ナンシルの時点でも多くの部分を見られたら良かったと思いますね。ところで、『美人図』という作品は、誰か一人が特出してドラマを導いて行ったというよりは、4名が一緒にドラマを引っ張って行かなければならないという利点がありました。そして、ぼくが今までしてきた人物たちの内面は、暗かったり、冷たかったりしましたが、シナリオを読んだ時、カンムという人物は、もう少し自分自身に近くて、キム・ナムギルという人をもっと自由に解放することができるキャラクターという気がしました。
ほんとうに一途に愛しますよね。そのカンムという方。
そうです。ところで、そんな部分において心配にもなりました。カンムは自分の命まで投げうって一途に愛する男です。でも、ぼくは一途であろうとしても、カンムのように命まで差し出して愛することができるかと誰かに訊かれても、「いいえ」と答えますね。ぼくは、そのように愛することはできないです。現実的な部分にたくさん当面するでしょうから。本当に明日すぐ飢え死にしそうなのに、だれか、女性に狂ってそんなことができる部分がないから。
そうですよね。お金なしに生きるとしても、いざ結婚して赤ちゃんを産んで粉ミルク代がなくなれば愛も見えないし。
ですから。そのような部分を考えるようになって、ぼくは「いいえ」と答えるんだけど、カンムは情緒的なこと自体が、ぼくの経験上知って考えていたこととは違うので、表現ができないように思いました。そうやって命を投げうって誰かを愛する心が、生きてきて少しずつ色あせて純粋さをたくさん失って行くから。実際、『モダンボーイ』の時、ぼくはユキコに向けたシンスケの想いを通して、男たちの愛を見せてあげたかった。もちろん、最終的に映画上でそのような部分は含まれていなかったけど。とにかく、男どもはロマンスと愛を区別できないんですよ。
そうですか? なぜですか?
おじさんたちも、子供がいて、妻がいて、職場があっても、自分をときめかせる女性が現れたら悩みますよ。でも、女性たちは今の安定した幸せを壊さないように苦労をするでしょう。多くの男どもは何かが近づいてきたとき、そんなことをするといけないと知りながらも、ときめきを抱いてどうすればいいかを悩んで躊躇します。そして、ロマンスと愛を区別できず混乱して。
私は男性のようです。
え? 男性でいらっしゃるんですね。(笑)でも、大体、女性の方がそうするより男の方がそうじゃないですか。劇中でシンスケの場合も結婚した状態でした。
そうですね。そんなことは一つも出てこなかった。
元々は、すべて撮影しました。カットされましたけど。(笑)『美人図』を選択したことの中に、ひとつも『モダンボーイ』で見せてあげられなかったことを見せてあげたいという考えのためでした。愛があったが、怖くて始められなかったのではなくて、現実的な恐れのために手を引いたとかの経験がある場合は、カンムを通して「私もあんな愛があった」と考えてくれればいいかなと。そんな様々な魅力のために、カンムを演じたいと考えました。
そうなんですね。『美人図』は最初から人々の関心をたくさん受けた作品だったじゃないですか。そのような映画に主人公として立ったが。
実際、ぼくは関心が多かったのか知りませんでした。ぼくは、『炎のように蝶のように』と『霜花店(サンファジョム』に出演する機会があったのですが、結局、そちらに心を決めませんでした。理由は、『霜花店(サンファジョム』の場合は、ぼくは今までやってきたものとは違うことをしたいので、前に映画『後悔なんてしない』で見せた同性愛コードがあるからであり、『炎のように蝶のように』は、ぼくが今、王を演じるにはちょっと手に余るからでした。結局、関心という部分は、ぼくが映画を選択する上で重要な部分ではなかったのです。ところで、演技する時、ぼくはいつもそうなんです。作品を通して、何か、のし上がるとか、商業部分を考えると、今までしていた作品と異なる作品をするんです。ドラマも入ってくるままにもっとたくさんやって認知度を上げたんだし。ところでそのような部分における重要性がまだよくわからないんです。
それでは、『美人図』は?
時代劇の人物はかっこよく見えなければならない部分がある程度あるけど、カンムはかっこよく表現できること自体がないので(笑)自由に解放されうる人物がもうちょっとユニークに見えることができると思いました。男のかっこよさを表現するよりも、自然さによりかかって表現する方がより魅力的ではないかという考え。いずれにしても、『美人図』のほか、史劇的な二つの映画はかっこいいキャラクターたちがいるので、演技的な部分を離れても、誰がもっとかっこいいかという競争をすることもあるんですよ。でも、カンムはそのような負担感がそれほど多くなかった。かっこよくなくてもいいから。(笑)
でも、かっこいいじゃない。
ああ〜ありがとうございます。今日のインタビュー、好き。(笑)
かっこよくなかったら、私、ここに来ませんでしたよ。
いや〜ありがとうございます。今日はカメラマンの方たちもそうだけど、すご~く皆さん。
いっぱいアップして差し上げますね。
はい、とてもたくさん。
そうですか。では、今から私は(写真に?)入らないように。(笑) ← 意味がわかりにくいです。訳、正確でないかも。ご指摘ください。
結局、シナリオを見て、そう考えて出演することになっても、シナリオに接した時と撮影に入った後、演技をしながら、また変わるんじゃないですか。
変わりますよ。
それから、自分はAという演技をしたのに、編集された最終パターンを見ると、Bと思われる場合もあり。
そんなのが大半ですが、『美人図』でそうだったのは、最初にシナリオを読んだ時、荒っぽい男を表現しなければならないと思いました。ところで(キム)ヨンホ兄自身が元々重量感のある俳優だし、キム・ホンドが武人らしく見えるほど武骨なのに、ぼくまで荒っぽい男らしさに焦点を合わせてみると、人物の対比が非常に減りそうでした。だから撮影しながらもいっぱい考えて編集されたものを観てみたら、天真爛漫ながら手なずけられていない野生馬の感じではあるが、少しは軽い、子供みたいに見える感じがありました。男が女を抱いてあげなければならないのに、むしろシン・ユンボクがカンムを保護してあげねばならない感じ。(笑)演技をしながらぼくが感じたままにすると、そんな人物が出てきたこともあり、そのような部分でぼくが考えてしようとしていたのが、こんな風に食い違うという気がしました。ところで、ほかの見方をすれば、そのためにキム・ホンドと対比される部分が多くなり得るだろうという気もしました。
キム・ホンドがちょっと太い竹のようならば、カンムは、
ぼくは葦(あし)です。(笑い)
カンムの性格は、序盤にはとても闊達です。そうするうちにだんだん変化します。ところで、カンムは明るくて天真爛漫であったことから暗く変わっていくのは、状況が変化するために変わるので、ユンボクがカンムを変化させたという気にはなりませんでした。
それはその通りです。カンムという人物自体が多様性を持っているんですよ。人は誰でもいろいろと異なる部分を持っています。ここで一部分のみを見せれば、それがキャラクター化されます。例えば『カン・チョルジュン公共の敵1-1』でぼくが引き受けたムンスはキャラクターであると思います。しかし、カンムはそのまま人物であることでしょう。状況に応じて、その状況に合うようにカンムが対処をするのか、ユンボクを通して、愛を知って変化する過程はさほど見せることができる部分はありませんでした。ところが、人々はカンムが愛する女性、ユンボクを通して非常に変わったという話をしました。
むしろ誰かが誰かを変化させたとするならば、シン・ユンボクがカンムを変化させたのではなく、カンムによってシン・ユンボクが変化したと感じられます。
そのような部分はあります。ぼくも個人的にはそう考えていますから。
この部分が人によって少しずつ解釈の違いがあるので、ご本人はどのように考えたのか気になりました。
シン・ユンボクがカンムを通して女性としてのアイデンティティを悟って、自分はこのように生きてはいけない、自分が持っている自由をもっと探したい、という自己探求的な考えをするようになるのです。人物の焦点をつかんで演技をするにあたっても、シン・ユンボクを通してカンムが変わっていくという設定をしていたのではないか。
美人図は、カンムとシン・ユンボクの愛だけがあるのではなく、複雑に絡み合っていることが多いじゃないですか。
そうですね。
ドラマの流れはシン・ユンボクに合わせてはいるが、人物たちが皆、強くて。
較べたら、ぼくは少しもヤワではないでしょう。図太いじゃないですか。(笑)
他の人たちは目つきが皆きついじゃない。(笑) でも、唯一違うのが、すべて気にするな、お互いだけを見ればいいだろう、という人がカンムです。なので、そんな激しい人たちの中で自分の感情線を放さないで行くのはちょっと大変ではなかったかと思われます。
人物構図をそのように作って演じたこともあります。 ある一つの人物が強くてその人物に巻きこまれて演技をしてみると一緒に強くなり得る部分があるので大いに心配しました。 でも、監督が人物線についてディテールな部分をたくさん選んでくれました。 それから、ぼくが巻きこまれなかった理由はカンムという人物の性格そのものが明るいためです。 ぼくは、本来、性格が明るく情に厚く人が好きなんです。 映画序盤、市場の通りでのカンムの姿はとても明るいです。 それから、もっと明るくなければならないという気もして。 そのためにカンムに対する呼吸をさらに保とうと現場でいたずらをしてスタッフたちと遊んで撮影に入れば、「何を撮ればいいんだ? 何だっけ?」そんなことをしながらやりました。 『モダンボーイ』や『カン・チョルジュン公共の敵1-1』は現場で明るくしていたが撮影に入れば集中してやらねばなりませんでした。 だから、『美人図』は、ぼくより他の俳優の方がもっと大変だったでしょう。 感情が強い人物を演じて集中すべきなのに、ぼくはそばでまさに飛び回ってふざけたりするから。(笑い)
映画でカンムがシン・ユンボクを愛するのは過程ではなく、本当に瞬間のような気がします。
最初は愛であるよりも憐憫の方が多いようです。ユンボクの胸を見て触ろうとして顔を合わせます。それが最初の意外性です。どうしてこれほどまで、女性だったのにという意外性。だけど、実際は、シン・ユンボクの眼を見てカンムがその感じを受けたんです。シン・ユンボクがぼくを振り返って見た時、その女性の眼にこもった痛みを見ながら意外性や憐憫を感じたのです。カンムが女はたくさん知っていてもそのような感じの愛に対する経験はあまりしてみなかったから。そんな意外性や瞬間的憐憫に対することが重なってみると、愛もそのように感じられるんだけど、ある意味、瞬間的な部分が弱いことが多いです。それがもっと顕著に表現されていればよかったんですが。
私もその部分がちょっと残念に感じられます。 感情のディテールな部分。カンムが身体があらわになった女を見て、あるいは、その瞬間、ユンボクの眼を見てどうしてそんな短い瞬間に愛に陥ることができるかと。
それは演技的な部分においてぼくがきちんと表現をできなかったためです。言い訳をすると、時間的な部分に追われて映画を撮ったからであり。個人的なことで言えば、観る人をして眼ひとつで、「ああ!この人は瞬間的に何かを見たよね」そんなことを眼差しで表現すべきだったのに、まだぼくの経験が多くなく、演技的な部分がとても浅いので。
そうですか...
いや、ほんとに、事実です。人々は「カンムがユンボクのどういうところを見て恋をしたのか分からないです」。それでは、それが、演出的な部分や、多くの他の理由があり得るかもしれないけど、演出的な部分がどうであっても、俳優がそれをそれほど表現できなければ、それは俳優の演技的な部分に問題があるんです。ぼくは個人的に『パイラン』という映画をすごく好きなんですよ。
チェ・ミンシクさんが出てるの。すごく...
話にならなかったシナリオでも、チェ・ミンシク先輩はそのように演技をしたじゃないですか。最後に泣くのはおかしくなかったしね。セシリア・チャンが死んで入ってきたとき、コン・ヒョンジンが「ヒョン、演技がうまいな」とそう言ったときでも、チェ・ミンシクの演技はオーバーにはならなかった。瞬間、「ぼくもあのようすることができるみたい」そんな感じがしたのだから。そのため、カンムがユンボクを愛するようになる瞬間が完全にうまく伝達されていなかったのは演技部分についてのぼくの手落ちでしょう。(笑)
家に帰って、また、『パイラン』を観なくちゃ。
ほんとに、あの映画、すごく好きなんだ。
『美人図』は愛の物語であり、久々に相手俳優が、
女でした。(笑い)
私は、『カン・チョルジュン公共の敵1-1』でナムギルさんの相手俳優はソル・ギョングと信じています。 『モダンボーイ』の時は、パク・ヘイル。 『後悔なんてしない』は言うまでもなく。(笑) 久しぶりに女の方で、露出シーンまでこってりしていて、
ぼくは、自分が撮ったせいか、こってりという気はしないんだけど..
私がそのような映画をたくさん見ないからです。(笑い)どうでしたか? キム・ミンソンさんと呼吸を合わせたが、もちろん男優も自身の露出が負担になるでしょうけど、どうしてもそのような状況では、男優が女優をさらにリードしてくれて雰囲気を作ってあげねばならない部分があるはずですが。
どうもそうするしかなかったのは、ぼくが撮影現場で末っ子なのでそうだったこともあるが、それが好きで。
何がお好きですか?(笑)
いや。ベッドシーンを好きだというのではなく(笑)、撮影現場の雰囲気を作るのが。映画自体がスタッフたちももそうだし女優の顔色を見るほかはない状況でした。監督もベッドシーンが初めてだったし。ぼくは三度目のベッドシーンだったので、特に服を脱ぐことについてプレッシャーはあまりありませんでした。もちろん身体を作って運動をする上で俳優たちがストレスを受けることはあっても、これは朝鮮時代なのに男が身体がごつごつしているなら、現実的なリアリティに欠けるでしょう。実際、そういう時だけ、リアリティをすごく考えるんだけど…(笑)
まだまだ続きますが、残りは、次回に。]]>
<インタビュー> 『美人図』の男、キム・ナムギル ①
http://omasabeu.exblog.jp/24384739/
2015-08-20T20:20:00+09:00
2015-08-20T20:30:17+09:00
2015-08-20T20:20:38+09:00
omasa-beu
映画 美人図
シネマートさん情報によると、『無頼漢 渇いた罪』前売り特典第二弾が8月26日(水)より配布開始ということです。その特典の特別映像DVDが一体どんな内容なのか気になります。予告編集かな。まずは、シネマート心斎橋まで出向く必要がありますね。
詳しくは、こちらのサイトをご覧下さいませ。
さてさて、このところ、ちょっとウツ気味というのか、単に怠け者のせいか、ブログにも向き合えない日々が続いています。ただ、キム・ナムギルさんの文章、彼についての記事だけは、やはり好きみたいで、かつて、リンクだけして、訳していなかった『美人図』の頃のインタビュー記事を少しずつ読んでいます。翻訳機ではわかりにくい日本語のみ、多少、見直してます。ロング、ロングインタビューなので、何度かに分けてアップしてみます。本日は、本題の美人図の話題に入るまで。掲載写真は元記事にてご参照いただければ幸いです。
『美人図』の男、キム・ナムギル - 純粋な愛で女人を抱く -
カンムは青かった。その青さは純粋さの結晶となり、男を泣かせて「彼」を「彼女」に変化させた。しかし、互いを抱く心は、現実の激しい暴風雨のために苦しい切なさとなった。そして、互いの手を放さざるを得ない悲劇は、筆先で伝える胸の中に満ちる情となり世の中に残された。
この感情すべての旋律は、カンムという名前を重ねたキム・ナムギルによって描かれた。誰より明るくあっても、だからこそ、さらに胸を痛めたカンム。キム・ナムギルは、カンムの眼差しで生きる間、楽しかったり悲しかったり、時には、寂しかったと語った。それから、瞬間の愛に命を捧げるという無謀なほどに純真な男が自分から発散されるかを真剣に悩んだと語った。
結局、すべての考えを振り払ってカンムとなり、シン・ユンボクが抱くただ一つの愛となる『美人図』を満たした。
「キム・ナムギル」は「イ・ハン」であったし、「イ・ハン」は、率直な自分の名前「キム・ナムギル」の前に席を譲った。新たに始める気持ちと演技について率直さを抱こうとした彼の想い。そうやって、真心がこもった俳優であろうと願う彼の信念に「キム・ナムギル」という自身の名前三文字をかぶせて、彼は、2008年、『カン・チョルジュン公共の敵1-1』、『モダンボーイ』、『美人図』というカラーの違う線の太い映画で存在を輝かせた。
キム・ナムギルは、いつも変化しようとしている。その変化は、いつも多様性と新しさを含め、それによって見慣れた彼を再び見慣れない者として向き合わせたりもする。配役を通した絶え間のない馴染み薄さは、俳優であることを願う彼の不敵な鋭敏さなのだ。キム・ナムギルという名前を通して繰り広げられる今後の幾多の挑戦がいつも俳優という修飾語に投影されるよう願う。
文 キム・ソニョン記者、写真 クォン・ヨンタン、デザイン イ・ギソン
2008.11.24
『モダンボーイ』のマスコミ試写会の場でキム·ナムギルさんを初めて見ました。実際に見ると、とても素敵で会いたかったんですが、こうして、『美人図』でお会いすることになりました。
いや..ありがとうございます。(笑)
ところで、シンスケの役割が原作では多くの比重を占める人物でしょう。だから映画でも多くの期待をしましたが、思ったより量が少なくて少し惜しかったと思います。
元々、最初の編集本にはぼくはすべて出ています。ところが、映画が二人の俳優のメローに焦点を合わせてみると、たくさんカットされました。ぼくが出ると、そのような部分が複雑になるので観客の理解を助けるためにそうしました。率直に言って、ぼくは、最近の観客がそのような部分を理解できないだろうとは思いませんが、映画を作る製作者の立場では、そのように考えたようです。しかも、ポスターからも外れて少し気がくさったりもしました。それでも映画がうまくいったら、悔しくもなかったのですが。
そうですね。興行が期待ほどではなかったのですね。
100万を超えなかったので。ところで、その時は、劇場自体に全体的に人があまりいませんでした。最初にボックスオフィス1位をとっても、それが何の意味があるのか、あれだったから。そんなことがたくさん残念でした。
最近、全体的に劇場に人があまりいなくて..とにかく、『モダンボーイ』の原作はお読みになったでしょう?
もちろんです。おちぶれたり、死なずに生きることができるのか。
そこではシンスケが東京で最高の美男に設定されているでしょう。
だから。(笑)シンスケを描いた部分になって長く出てきて、ぼくはホントに...(笑)
映画の中でビジュアル的な部分は、私が考えたシンスケの姿によく合致していました。でも、原作よりも少し冷たいように思えました。
カットされた部分を見ると、へミョンと楽しく遊ぶ場面もあり、愛の話もあってシンスケの温かい部分がたくさん見えます。そんな後に、仕方なく急変する部分が出てくるのです。ところで温かい部分が削除されてるので、シンスケが愛について悩んだり、涙を呑んでへミョンを取り調べるシーンに対して、やるせなく思ってないように見えてたんです。
原作を見なかったら、特にそのようです。
何人かは、シンスケがオ・ガイを捕えたこともへミョンを通してチョ・ナンシルを捕えるための計画だったと話してましたが、ぼくが考えていたシンスケはそのような意図はないんですよ。そのようなものは編集によって説明が不足した部分です。そして冷たいというのは外的な部分においてもそう見えるみたいです。その部分は、『エロス』という映画のチャン・チェンを見て、モチーフを引用しました。
『モダンボーイ』でカットされた部分のためにちょっと残念でしたが、とにかく『カン・チョルジュン公共の敵1-1』、『モダンボーイ』、『美人図』まで2008年だけでも続けて三本に出ています。映画界の不況にあって、多作俳優じゃないですか。(笑)
(笑)人々がそのような話をすごくしますが、それに何の意味があるのかといっぱい考えました。かつては「今年は三本じゃないか」と言ったり、「うん? 三本やったね」という考えもしたが、その三本という意味がそれほど多くの作用をするのではないようです。演じてきた人物がすべて違って見えるので、同じ俳優が三作品に出たと考えない方もおられたり、「そいつや、そいつや」(笑)という方たちもいらっしゃいます。
そうです。全部、違う人みたいです。
だから、その三本が個人的な経験なりクオリティ的な面で発展をもたらす部分ではあり得ても、他のことにおいて、大きな意味で作用はしません。
では、その三作をやりながら、元々、芸名で使っていたイ・ハンから本名であるキム・ナムギルに変えられたでしょう。イ・ハンであれ、キム・ナムギルであれ、いずれにしても、本人は本人ですが、それでも感じは違っていなかったですか?
カン・ナムギル先輩と名前が重なる部分があったので、「クムスン」の時から「イ・ハン」で活動しました。でも、活動しながら、本人の名前をかけて演技する先輩たち見て、自分の名前をかけてするのがどんなものか、ぼくがする仕事に自分の名前をかけてするのがどんなものかについて考えるようになって、切望が生じました。そして、イ・ハンも出るし、キム・ナムギルも出るけど、イ・ハンというマネジメント的な名前とイメージよりは、自分の本名を使って、率直な立場で演技をできれば良いと考えました。そうすると、より透明性を持って最初からやり直すという意味を持つのではないかという気にもなりました。
周辺では、何と?
当時、カン・ウソク監督、チョン・ジウ監督、(ソル)ギョング兄はぼくの芸名があるのに本名をたくさん呼んでくれました。ギョング兄は笑い話として「おい! イ・ワン、イ・ハン、イ・オン、何だ、そりゃ、何だよ、おまえたち、兄弟かよ〜?」(笑)なんておっしゃっていました。とにかく『カン・チョルジュン公共の敵1-1』を公開するので、カン・ウソク監督がクレジットに名前をどうするかと電話をくれました。そのときは、本当にすごく悩みました。考えていても、いざ、その瞬間にはどうすべきかわからないんです。そうするうちに、最終的に「キム・ナムギルで行きます」と決めて、チョン・ジウ監督やギョング兄に電話して「これで大丈夫でしょうか?こう決めました」と。すると「おまえが自分で決めることだろ。それをなんでおれたちに訊くんだよ」と言うんですよ。(笑)いや〜、自分たちがたきつけておいて。
彼らはたきつけておいて 「さあ...何、おれは..よく.. 」という訳で。(笑)
今はそうしてよかったという気がします。周りの先輩たちもそう言ってくださいますし。
ところで、なぜ、そのあたり、変えなかったのですか? 私はインタビューのために完全ストーカーのようにナムギルさんの調査をしたのですが、インターネットにキム・ナムギルと打つと、まず、イ・ハンと出ます。今とイメージが全く違う写真と。
そうでしょ。それはなぜ変えないんだ? 提案するようにしますよ。(笑)
はい。では、これから本格的に『美人図』の話をしてみましょう。私の質問はそれほど難解ではありません。(笑)
いいえ。難しくてもいいです。
ところで、私は、そういうのが好きです。私が他の人たちと同じことを訊いても、相手が私に答える時に違えて答えてくれること。ちょっと利己的でしょ。(笑)
返答するのは常に異なるようにしようとしています。人によって違うから。ぼくはインタビューが好きなんですが、インタビューはただ映画の話をするということよりも、ぼくが記者さんに初めて会ってぼくの話をし、記者さんが話をし、そうやって知り合って行って縁を作り、さらに真摯な個人的な話をして、というのがより重要だと思います。インタビューで無条件に映画についての質問だけして返答をするのなら、メールで交換してもいいんですから。
そうですか? よかった。こんな俳優たちがますます増えなければならないでしょう...
みんな、このようにしませんか? 周りから見ると..(笑)
(続きます)
最後に、本日解禁となった『無頼漢 渇いた罪』の日本版ポスターヴィジュアル。Kstyleさんからお借りしました。
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『美人図の男』キム・ナムギル、ロングインタビュー
http://omasabeu.exblog.jp/17666817/
2012-06-18T01:33:00+09:00
2015-07-30T22:32:18+09:00
2012-06-18T01:33:28+09:00
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映画 美人図
2008年11月、『美人図』公開当時のインタビューですが、シネマート六本木でのナムギル祭が最終週に入った今、読み直してみると面白く感じられます。『美人図』だけでなく、『モダンボーイ』や『カン・チョルジュン公共の敵1-1』についても語っています。
普段、服装にはかまわないナムギルくん。アクセサリーもあまりしない方ですが、この写真では、右手中指にしてますね。
写真の出処は上のインタビュー記事内です。
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韓国映画『美人図』主題歌
http://omasabeu.exblog.jp/15642091/
2011-03-10T23:42:00+09:00
2015-07-30T22:33:14+09:00
2011-03-10T23:42:48+09:00
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映画 美人図
先日届いた『美人図』DVDの日本版はもちろん日本語字幕つき。映画館で観たときにも感じたことだが、エンディングで流れる主題歌の歌詞が素晴らしいのだ。YouTubeの映像とともに、その歌詞を紹介したい。
白い花びらが舞い落ちた日 夢のような愛が訪れた
その愛に胸が引き裂かれ こらえた涙は数知れず
この涙が川となり あの海に流れついたら
雨となって あの人に 一度だけ会わせてほしい
悲しきこの愛よ 恋しきあの人よ
あなたの眼差し 仕草 あなたの声
ひとつだけ 心に残させて
最愛の人よ 伝えきれない想いを届けたい
あなたの腕に抱かれた日 私は生まれ変わった
最愛の人よ 伝えきれない想いを届けたい
あなたの腕に抱かれた日 私は生まれ変わった
あなたを愛したから]]>
韓国映画『美人図』日本版DVD
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2011-03-01T00:40:00+09:00
2015-07-30T22:38:19+09:00
2011-03-01T00:40:20+09:00
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映画 美人図
キム・ナムギルくんの『美人図』が発売予定日より2日早くアマゾンから到着。ブルーマンデーをハッピーマンデーに変えてくれた。
韓国版DVDにはなかった特典映像を真っ先に見たのに、ああ、残念なことにナムギルくんのインタビューはなし。かれが兵役についたあとに撮られたインタビューかしら。でも、キム・ナムギルをカンムにキャスティングしたチョン・ユンス監督の眼は確か。監督がなぜナムギルくんを選んだか。監督は次のように答えている。
「カンムには少年のイメージが必要でした。強烈な個性よりも愛一筋に生きるひたむきさ、純粋な少年のイメージを求めたのです。大衆にイメージが固定された俳優は候補からはずしました。先入観のない俳優が新たな一面を見せたら映画に斬新さが加わり、観客にもよく伝わると思いました。そこで、ナムギルさんに会ってカンム役に決めました。カンムを演じてもらう上で、特別なキャラ造りや彼にない要素の演技はあえて要求しなかった。ありのままでよかった。純朴な青年のイメージがよく出ていて、後半部分の感情が爆発するシーンで悲しみや切なさがよく伝わりました。彼には感謝しています」
監督の意図したカンムを演じたナムギルくんの演技力は大したものである。『善徳女王』のピダムのような残忍さなど持たない明るく真っ直ぐなカンムはナムギルくんの素に近いものらしい。
メイキングでは、俳優って、ほんとに大変と思われるシーンが撮影されているが、それだけ魅力のある仕事なんだろうな、ナムギルくんにとっては。
おまけのリーフレットの写真はほとんどナムギルくん。上記の写真裏側には、劇場で販売されていたパンフレットの袋とじ部分の写真が。。。知る人ぞ知るですね。]]>
キム・ナムギルの『美人図』
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2010-12-02T23:49:00+09:00
2015-07-30T22:39:01+09:00
2010-12-02T23:49:27+09:00
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映画 美人図
『美人図』は、キム・ナムギルの魅力が凝縮された作品である。ナムギルくん演じるカンムを通して、命よりも愛を貫いた強さや一途さに加え、ナムギルくんが本来もつ明るさ、男っぽさを堪能させてくれる映画なのだ。その日本版DVDが発売予定(2011年3月2日)とは、ほんとに嬉しい。
映画館で初めて日本語字幕で観た時、言葉の意味を十分理解せずに韓国版DVDで見ていた時よりもはるかに大きな感動を覚えた。今度は、日本語字幕のついたDVDでじっくりと、繰り返し見ることになるだろう。また、韓国版にはない70分もの特典映像が入っているのも楽しみである。
Amazonでは、26%OFFで予約受付中。]]>
韓国映画『美人図』
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2010-10-03T00:52:00+09:00
2015-07-30T22:40:23+09:00
2010-10-03T00:52:19+09:00
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映画 美人図
キム・ナムギルくんの『美人図』が2日から大阪の心斎橋シネマートで公開。初日限定で先着100名に生写真のプレゼント。パンフレット購入者にはナムギルくんのサイン入りポスターが抽選でもらえるという特典つきである。
3回目の上映時間に合わせて出かけて行った私は先着100名の中にはもちろん入れず、サイン入りポスターもすでに誰かの手に落ちたあとだった。シネマートのスタッフによると、パンフレットを20部購入したファンがいたという。パンフ1部につき1回抽選できるからである。
私だって結構ナムギルくんが好き好き状態だけれど、まだまだ愛が足りないようだ。もっとも、サイン入りポスターが特にほしいとは思わない。サインはやはり眼の前で書いてもらわないと、な~んて負け惜しみを言っておこう。
『美人図』は何度見てもいい。18世紀末の朝鮮時代に実在した絵師シン・ユンボク(キム・ミンソン)が実は女性だったという設定のもと、鏡職人カンム(キム・ナムギル)との愛を描いた映画である。二人が全裸で演じている濡れ場はもちろん毎回息を殺して見てしまうけれど、それ以上にどきどきするのは、カンムの仕事場に初めてユンボクが訪れ、二人が素足で土をこねる場面である。直接的な愛の表現よりも艶っぽく感じられるのだ。ラブシーンだけでなく、ナムギルくんのアクションも圧巻。『善徳女王』のピダムのように強くはないが、なにしろかっこいいのである。
両班(やんぱん)の楽しみとして、清の枕絵を元に再現される「四十八手」の体位を細い下帯だけの女性二人が再現してみせる場面はちょっと長すぎるのではと観るたびに感じるのが、私にとってのマイナス点。でも、映像は素晴らしいし、実際にユンボクや師のキム・ホンドが描いたとされる絵がうまく活かされていて楽しめる。イ・アンが歌う哀調を帯びた主題歌の日本語訳がエンドクレジットで流れるので、余計、心に染みる。日本語字幕のDVDが早くほしい。
ちなみに、パンフレットは全頁が袋とじになっており、開けると、濡れ場写真が満載。画面ではカットされていたシーンも観られるのがうれしい。]]>
キム・ナムギル@韓流シネマ・フェスティバル2010@シネマート心斎橋
http://omasabeu.exblog.jp/14443214/
2010-08-22T01:17:00+09:00
2017-11-16T16:27:31+09:00
2010-08-22T01:17:53+09:00
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映画 美人図
オープニングの『美人図』に続き、『カン・チョルジュン公共と敵1-1』と『後悔なんてしない』が上映されるという、まさしくNamGil Dayとなった21日、シネマート心斎橋の大スクリーンで三作品を楽しんだ。
すでに三作品ともDVDで視聴済みだけれど、映画館で観るのはやはり感動がちがう。とくに『美人図』はもう何度となく観ているにもかかわらず、ナムギルくん演ずるカンムの一途さに胸を打たれた。全裸で挑んでいるキム・ミンソンさんとのベッドシーンはいつ見てもうらやましくて(笑)ため息が出るほど美しい。そして、なにより日本語字幕が有難い。英語や韓国語の字幕では十分に理解できてなかったことを実感する。10月2日から公開が決まっているが、特別鑑賞券のおまけの写真につられ、行けるかどうかわからないのにチケットを購入してしまった。
『カン・チョルジュン公共の敵1-1』はソル・ギョング(설경구)主演のハチャメチャ刑事シリーズ。今回もソル・ギョングさんはじめ達者なレギュラー陣に笑わせてもらった。ナムギルくんは今よりもかなりがっちりとした体型。髪型のせいか、顔も丸顔に見えるがアップになると、う~ん、男前。しかし、役柄は人殺しなど何とも思わないやくざ。テレビドラマ『恋人』で演じた寡黙なやくざとは全く違う凄みがあった。カン・チョルジュンのような刑事役などナムギルくんにやってもらいたい。兵役が終わる2年後を待つしかないけれど。この作品でチョン・ジェヨン(정재영)さんの妻役で出ている女優さんに見覚えがあると思ったら、『悪い男』で執事役をしている女優さんだった。名前は、チュ・グィジョン(추귀정)さん。テレビでは初めて見る顔だったが印象が強く残っていた。演劇や映画で活躍しているようだ。
『後悔なんてしない』は同性愛の恋人同士を描いた映画だが、同性愛とか異性愛とか関係なく、また恋がしたいと思わせてくれる映画。ここでも果敢にゲイの役に挑戦しているナムギルくん。写真集の文章によると、ナムギルくんのお母さんはまだこの作品を観ていないようだ。たとえ演技とはいえ、息子の男同士のラブシーンを見るのは、母としてはきついのかも知れない。
この3本の映画を見ただけでも、同じ俳優が演じているとは思えないくらいだ。のっぺりした顔で個性がないからいろんな役に変身できるみたいなことを言っていたけれど、あんなに整った顔はそうはいないから、全く違う人物を造形しているのは、やはり演技力によるところが大きい。それにしても、今後2年間、新しい作品でナムギルくんに会えないのがほんとに寂しい。
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