奥野修司「心にナイフをしのばせて」(文藝春秋)
2006年 09月 11日
夏の甲子園、三沢高校と松山商業の決勝戦再試合が行われたのと同じ年なのに、私は全く覚えていない。少年事件ということから詳しく報道されていなかったのだろうか。いや、社会のことに無関心だったせいかも知れない。
著者は1997年春の神戸「酒鬼薔薇」事件をきっかけに、それより28年前の本件を知ることになる。その後10年近くをかけての取材をもとにKくん一家の事件後が描かれている。取材にこれだけの年月がかかったということだけでも、事件に向きあいたくないという遺族の衝撃の深さを物語っている。
あんな事件を起こした者が普通の仕事にはつけないと思っていたKくんの母はAが弁護士になっていることを知る。「せめて謝罪を」という手紙をAに送るが返事すらない。思い余って電話をした母は事件から30年を経てはじめてAと言葉を交わす。未だ履行されていない慰謝料につい言及してしまったKくんの母にAは言う。
「少しぐらいなら貸すよ、印鑑証明と印鑑を用意してくれ、五十万くらいなら準備できる。今は忙しいから一週間後に店に持っていくよ」
欲しいのはお金ではなく、謝罪の言葉である。しかし、Aは<なんでおれが謝るんだ>と答える。
Aの弁護士事務所の前にはつつじが植えられている。Kくんが殺されたのはつつじが咲く畑の中だった。遺族は今もつつじを直視できないし、現場を見た関係者もつつじを見たくないという。Aの事件当時の精神鑑定書には、「反省や謝罪を意味する言葉はどこにもない」し、調査官に「自分は将来、Kくんの分とあわせて二人分働く」と語っている。栃木リンチ事件の主犯が「出所後(自分が殺害した)Sくんの分まで幸せに暮らしたい」と法廷で話した言葉を思い出してしまった。
事件からすでに37年が経過している。この間、息子を、兄を失ったKくん一家は地獄の日々を生きてきたのに、AにとってKくんはとうに忘れ去られた存在なのか。「二人分働き」、その一人分を遺族への慰謝料として支払うならまだしも、謝罪の言葉もなく、お金を貸してやるという神経をどう考えればいいのだろう。
たとえ少年であろうと、人の命を奪った者は何らかの形で贖罪の日々を送る人生しか許されないのではないか。本書に書かれた「事実」に割り切れない想いばかりが残ってしまった。
信じられません・・同じ時代に生きてきましたが、私もこんな事件があった事知りませんでした・・
今、凶悪事件が限りなくおきる世の中で、瞬間的に思う事は
我が子が事件に関っていない事・・被害者、加害者両方に・・
一生懸命育て、我が子を信じていても、瞬間よぎる不安・・・
普通の良い子が起こ信じられない事件の数々・・・
この被害者の親御さんの心情・・・私はどの言葉で言い表せるかわかりません・・
A・・・・・鬼畜・・弁護士・・少年法・・・私の頭では考えられない・・
なんと言う事実なのでしょう・・・
怒り・・驚き・・被害者の母の人生・・・言いようはないです・・・
読んでみます・・・
こうした事件を起こすこと自体もちろん理解できませんが、その後の生き方も理解できませんね。そもそも、その後の人生を償いの気持ちで暮らせるような人間なら、簡単に人の命を奪えないでしょうけど。
暴力自体よりも、人の命を軽んじる考え方の歪みのほうがはるかに恐ろしいです。
ああ、こわ!こんな人間が大手を振って歩いてるんですね・・・
被害者家族、加害者周辺の人たちには過去の事件であるだけではなく現在進行形なんですね。
少年Aは犯行直後から自分の罪を隠すような工作をした人間です。少年院を出てから現在まで法律に触れるような犯罪を犯していないにしても、それで更正と呼べるのかどうか、、、被害者や遺族は打ち捨てられたままです。
本書を読んだ夜は眠れませんでした。